こんにちは、Watsonです!
今回は、令和7年(2025)に開府400年を迎える新庄市、
そして江戸時代最上地域一円と村山地方の一部を治めていた新庄藩についてです。
現在の新庄の町づくりの基礎を築いた初代藩主・戸沢政盛について深掘りしていきます!
戸沢家の始まりは鎌倉時代。戸沢家の祖である戸沢衡盛(ひらもり)は平氏の流れを汲み、木曾義仲に従い、源頼朝に仕え、やがて岩手県雫石に落ち着きました。
この時、姓を地名からとって「戸沢」と称したといわれております。
その後に雫石から現在の秋田県仙北市の門屋・角館と城を移し、戦国大名となります。
戦国時代、政盛の父・戸沢盛安が当主を務めていたころは戸沢氏の勢力が最も大きく、織田信長に鷹を送るなど、中央との繋がりを大切にしました。
ちなみに、盛安が贈り物をした際にこのようなエピソードがあります。
信長に鷹を送るため盛安が前田という家臣に使いを頼んだのですが、なんと、その家臣はあたかも自分が城主かのように偽ってしまいます。
その事は盛安に知られることになります。
それでも戸沢家内部での争いを防ぐために盛安亡き後も戸沢家の家臣となっていた前田家でしたが、二代新庄藩主・戸沢正誠(まさのぶ)の代に後継ぎの男子がおらず、家臣たちは「前田家は古くからの家臣なので」と娘を後継ぎにしようと正誠に願い出ます。しかし正誠は「前田は先祖に不忠の者」として許さず、前田家は断絶してしまいます。
中央とのつながりを大切にした戸沢家ですが、織田信長が死去し豊臣秀吉の時代になった天正18年(1590)、小田原征伐に参加していた盛安が陣中にて病により死去。
盛安の弟である光盛が跡を継ぎますが、文禄元年(1592)の朝鮮出兵のため西国に向かう途中に疱瘡(天然痘)にかかり、現在の兵庫県姫路(または明石)にて16歳(または17歳)の若さで死去しました。
光盛にも後継ぎがおらず、これにより主を失った戸沢家は存亡の危機に立たされます。
そこに白羽の矢が立ったのが戸沢政盛でした。
政盛の父盛安は正室を持ちませんでしたが、鷹狩を行っていた際に見初めた小古女沢(こごめざわ)の百姓・源右衛門の娘に生ませた子が政盛でした。
源右衛門の娘は母乳の代わりに甘酒を政盛に飲ませていたとされ、甘酒さるこ(またはさんこ)と呼ばれたといいます。
政盛は天正13年(1585)に生まれ、盛安の死去後、母である源右衛門の娘が東光坊という山伏と再婚したため、山伏の子として育てられました。
盛安の弟光盛死去後、戸沢家の家臣たちが急きょ政盛の元へ行きますが、東光坊は反対します。戸沢家の家臣は東光坊を斬って政盛を奪い、徳川家康のあっせんにより秀吉に拝謁し、文禄2年(1593)秀吉より叔父光盛の領地安堵の朱印状を賜り、第二十一代戸沢家当主となりました。
慶長3年(1589)天下人・豊臣秀吉が死去。
秀吉の死去に伴い徳川家康が台頭し、豊臣秀吉の側近・石田三成と対立することとなります。
その中で三成派である上杉景勝が、戦のために城を築城しておりました。
その様子を山形の戦国武将の最上義光らが家康に報告します。政盛もこの時に報告した大名の一人でした。
上杉の様子を探った家康は政盛に返書を送ります。「九郎五郎(政盛の別称)の報告によって会津の様子が分かった。詳しくは田中清六(諸大名と中央政権との交渉を担った京の鷹商人)に申し伝える」。
関ヶ原の戦いの前年には「会津への出陣が決まった。来る21日、最上義光を味方にして米沢城を攻撃せよ」と書状を送りました。
政盛は上杉方の城、東禅寺城(酒田城ともいう)を最上方の武将と共に攻め落としました。
関ヶ原の戦いは徳川家康率いる東軍の勝利となり、政盛も関ヶ原の戦いの功績を受け、常州松岡(現在の茨城県高萩市)に国替えとなりました。
政盛は初代松岡藩藩主として初め、小川城(現在の茨城県小美玉市にあった城)に入り、その後現在の茨城県高萩市にあった竜子山城を松岡城と名を改め、城下町の整備にも力を尽くしました。
慶長14年(1609)には、政盛は徳川家の忠臣・鳥居元忠の娘真室御前を正室に迎えます。
しかし、真室御前は病弱の上乱心気味であったため、家臣の一人が「なぜこのような人を迎えるのか」と問います。すると政盛は「これは取り組まなくては行けない縁組なのだ」と政盛は答えたと言います。
瑞雲院西墓地(通称焼け寺)にある真室御前の墓石
この鳥居家とのつながりは初期の新庄藩では無くてはならない存在となります。
また、政盛は松岡時代には多くの家臣を召し抱え、北条・井関・小山・船生(ふにゅう)・加々尾(かがお)家などが家臣となり、後の新庄藩を支える重臣となる家臣たちとなります。
政盛の松岡時代は20年にすぎませんが、松岡時代に培ったノウハウが後の新庄藩に活かされることになります。
(第2回につづく)