こんにちは、Watsonです!
今回は、令和7年(2025)に開府400年を迎える新庄市、
そして江戸時代最上地域一円と村山地方の一部を治めていた新庄藩についてです。
現在の新庄の町づくりの基礎を築いた初代藩主・戸沢政盛について深掘りしていきます!
第1回は、政盛が関ヶ原の戦いの功績を受け、常州松岡(現在の茨城県高萩市)に国替えとなるところまでお話ししました。
そして、いよいよ政盛が新庄へとやってきます…。
元和8年(1616)、政盛にとって大きな出来事が起こります。
最上家がお家騒動により改易(領地没収やほかの領地に移ったりすること)となってしまいます。
改易に伴い、幕府の命で福島いわきを治めていた政盛の義兄弟である鳥居忠政が山形藩主となり、庄内には酒井家が、上山には松平家が、新庄に戸沢家が入部することになります。
幕府としては東北の監視を鳥居家と縁戚関係の大名で固めたいという狙いがありました。
元和2年(1622)に政盛は最上地方一円と村山郡の一部(現在の大石田町や村山市、河北町谷地の最上川西岸)、6万石(後に6万8200石に加増)に国替えになりました。
まず初めに政盛は、最上家家臣であった鮭延秀綱が城主を務めていた鮭延城(真室城)に入ります。
また、この際に正室である真室御前を亡くしています。
鮭延城は街道に遠く山城で手狭だったので、新たな城作りに着手します。
寛永元年(1624)に幕府に新城(新庄)・升形・清水の三古城のいずれかの地に新しく城を建てたいと申し出て、最終的に新城の地(現在のように新庄と表記されるのは江戸初めからと言われています)に新庄城を建てることになります。
寛永2年(1625)に、義兄である鳥居忠政が山形から新庄に来て、現在の宮内七所明神の別当神宮寺(現存せず)に宿泊し、城の縄張(設計)を指示し新庄城ができます。
また、戸沢家の氏神である天満神社を城内に祀り、後に天満神社の祭礼が新庄祭りとなります。
また、政盛は足軽町や侍町・町人町の整備や新田開発等の領地の開拓を行い、新庄と金山の間に広がる指首野・塩野、津谷・鞭打野(共に現在の戸沢村津谷)の開発、藩の収入源として谷口銀山(金山)・永松銅山(大蔵)の開発を行い、また、藩の年貢米や特産品の余剰品を西廻り航路で大坂・京都に運び藩財政の確立に務めました。
政盛には、4人の子供がいました(他にも多くいたが、幼くして亡くなっている)。男子は半平と後の千代鶴(二代藩主正誠(まさのぶ))の二人でしたが、幕府には後継ぎとして届け出てはいませんでした。
政盛は鳥居家との縁をより一層強めるため、寛永二年(1626)に鳥居忠政の二男を娘である宮子姫の婿養子として迎え、戸沢定盛と名乗らせます。
定盛は現在国の重要文化財に指定されている鳥越八幡神社の本殿を建立した人物でもあり、次のような逸話があります。
ある日定盛が荒小屋で鷹狩を行っていたところ愛用の鷹が逃げてしまいました。
困った定盛は近くの八幡神社に祈願したところ、鷹が定盛の元へ戻ってきたと言います。それに感謝した定盛は荒小屋の八幡神社を鳥越に移しました。それが鳥越八幡神社の由来となったといいます。
ところが、後継者とされていた定盛も寛永18年(1641)に34歳の若さで死去しました。
政盛には定盛が死去する一年前に千代鶴(後の二代藩主・正誠)が生まれていましたが、それでもこれを後継ぎとして幕府に届けませんでした。定盛の子であるお風(またの名を虎子姫)に婿養子を迎えようとするも、お風も慶安元年(1648)に22歳で死去してしまいます。
それと同時に、政盛は定盛が死去した年から病気がちになってしまいます。
政盛には千代鶴がいましたが後継ぎとしては認めず、江戸で療養していた政盛は家臣たちに千代鶴を江戸に連れてこないよう伝え、逆らえば切腹を申し付けると言う厳しい扱いをしていまいます。
しかし、家臣の片岡杢之助は御家存亡の危機として、反対を押し切り千代鶴を連れ、江戸に向かいます。
そして、政盛の枕元に千代鶴を連れていきます。その際政盛は「最上のわっぱがこんなになったか」と労いました。
そして政盛は幕府での千代鶴のお披露目を見ることなく、慶安元年(1648)江戸桜田藩邸にて64歳で死去します。
遺骸は江戸での戸沢家の菩提寺である三田常林寺に葬られ、太田の瑞雲院に分骨され、現在も瑞雲院にある新庄藩主戸沢家墓所の一号棟にて、政盛の側室・政盛・定盛が並んで眠っています。
この最上地域一円の発展を行ったのが新庄藩であり、その礎を築いたのが戸沢政盛公です。
【参考文献、参考ページ】
・新庄市編さん新庄市史第2巻
・新庄デジタルアーカイブより。