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最上公園とおっしょ(新庄城)

こんにちはWatsonです!
新庄市出身の歴史オタクです。

新庄藩主戸澤家などの新庄・最上の歴史をザクザク深掘りしてお伝えします。
よろしくお願いします!

今回は、市民の憩いの場でもある最上公園。

最上公園は戸沢家が、11代に渡ってここを拠点とした新庄城(新庄弁でおっしょ)の跡地でもあります。どんなお城だったの?等ザクザク深掘りしていきます!

戸沢神社内にある新庄城絵図の案内板。幕末の時代の新庄城を幼い頃の記憶を古老たちの証言で確かめつつ書いたもの(郷土画家尾形(ろ)(こう)(1856~1946)の作)

新庄城は誰が作ったの?

新庄城(別名鵜沼城・沼田城)は今から約400年前の江戸時代の元和8年(1622年)、松岡城主(現茨城県高萩市)の戸沢政盛が出羽国最上郡と村山郡のうち、6万石(後に6万8200石)への土地に国替えとなり築城されものです。

元々、この地方を治めていた最上家がお家騒動によって倒れ、その75万石の土地が、徳川家の重臣鳥居家(山形藩)・酒井家(庄内藩)、鳥居家と親戚である戸沢家(新庄藩)、徳川家の一族松平家(上山藩)に分け与えられました。

初め戸沢家は、かつて最上義光の重臣鮭延秀綱が城主を務めた鮭延城(真室城)に入りましたが手狭だったため、同じく最上家家臣の日野将監(ひのしょうげん)の屋敷跡に新庄城を築城します。

寛永元年(1624年)に工事が始まり、義兄である山形藩主鳥居忠政が縄張りを行いました。忠政は新庄へ来た際に宮内の七所明神の別当神宮寺(現存せず)に宿泊し工事を指揮したと言います。

また、実際に家臣同士がやり取りした手紙には、寛永元年3月13日から普請(ふしん)(工事)を始めるので鉄砲衆から13人毎日人手をだすようにという文書が残っています。

そして寛永2年(1625年)本丸(現在の戸沢神社のある所)に3層の天守、三隅には(すみ)(やぐら)、表御門と裏御門を備え、二の丸には役所や米蔵、大手門・北御門が置かれ、三の丸には多くの侍屋敷が置かれた新庄城が完成し藩主政盛もここに入ります。

新庄城は戦国・安土桃山時代のお城のような戦いのためのお城ではなく、むしろ政治・経済・交通の要衝にあって、藩主の強大な力を誇示するためのお城でした。

新庄城の大きさは?

築城当初の新庄城の形・大きさは明らかではありませんが、正保初年(1644年~1648年)に新庄藩が、幕府に提出した正保の城絵図によると本丸の大きさが南北230m、東西94m。堀の大きさが広さ41m、深さ3mあったと言います。

また、新庄城は幕末まで大きさなどの大きな変更はなかったと思われますが、災害や老朽化で修復をしているところもあり、修復願が残っています。

寛文4年(1664年)の新庄城修復願(新庄デジタルアーカイブより)

例えば寛文4年の修復願には、以下のことが書かれています。

  1. 本丸表門は簡単な冠木門(かぶきもん)(左右の柱を立てて上に横木を渡しただけの簡素な門)で周りに塀もなく城内が丸見えなので、これを周りに土塁を築き塀を立てて升形(四角い形の城の入口)にして高さ3mほどの石垣を持った櫓門(やぐらもん)にしたい。
  2. 本丸の裏門も表門のようにしたい。今は東の方を出入口にしているが出入りに不便で西の方に出入口にしたい。
  3. 本丸の内3か所に設けている隅櫓は石の土台の上に建てたもので冬になった時雪が建物に押しかかり破損する危険があるから、櫓の下に2段の石垣を築きその上に櫓を建てたい。
  4. 外側の南門や北門の石垣が崩れかけてる所があるので復旧したい。

と言う内容になっており、この願いは同年8月に幕府老中より許可が下りて早急に工事を行ったものと思われます。

また、新庄城の天守は寛永6年(1629年)本丸・二の丸・櫓・家中町までもが火災で焼失。三層の天守も焼失し、以後再建される事はありませんでした。

現在は新庄城址内に標示柱がありどんな建物があったか知る事が出来ます。

新庄城御玄関(新庄藩庁の正面玄関)跡の標示柱

なぜ最上公園になったの?

新庄城炎上の図(新庄デジタルアーカイブより)

現在の最上公園は、藩政時代の建物はほとんどありません。唯一現存しているのが新庄天満宮のみとなっています。

原因は2つの歴史的出来事によるものでした。

1つ目は戊辰戦争。
戊辰戦争時新庄藩は始め、奥羽羽越列藩同盟(奥羽羽越の大名達が結成した反新政府同盟)側についていましたが、金山の戦いにて新政府側につきます。
それに激怒した庄内藩は新庄を攻撃し、城下と共に新庄城は炎上し藩主の(まさ)(ざね)は秋田へ落ち延びます。

2つ目は廃城令。
藩が無くなりその代わりに県が置かれ新庄藩は終焉します。
明治政府は廃城令を出し山形城など軍用地として使う城と、廃城する城を分ける法律を出しました。当時の新庄城は、武器櫓と藩政に使う道具等を納める大納戸(おおなんど)櫓は焼け残っていましたが取り壊されました。

その後本丸跡には、新庄学校や郡会議事堂等が建てられ明治24年には護国神社がこの地に移り、明治27年には戸沢家始祖戸沢(ひら)(ひらもり)・藩祖戸沢政盛・11代新庄藩主戸沢正実(まさざね)を祀った戸沢神社が完成しました。

詳しい開園時期は不明ですが、金山の酒造家が新庄城址に最上郡公園を作ろうと熱心に唱え、郡会議長と共に資金繰りに奔走したと大正時代初めの新聞に報じられたため、大正時代の始まりに公園になったと思われます。

100年以上の歴史を持ち、憩いの場となっている最上公園。
令和7年には、戸沢政盛が新庄城を築城し城下町を開き、400年の節目の年になります。

【参考文献,参考ページ】

・新庄市編さん新庄市史2・3・4巻
・新庄市公式HP新庄城址(最上公園)紹介ページより。

Watson
この記事を書いた人
新庄市出身の歴史オタク! 新庄市を中心に最上郡内等の歴史をザクザク掘り下げます! 推し武将は戸沢盛安(初代新庄藩主政盛公のお父さん!) 他に音楽好き。
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